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PJ学科主任 江田和正のブログ(えだブロ)執筆開始! 「なぜ主観を排除する必要があるのか」

PJ学科主任 江田和正のブログ(えだブロ)執筆開始! 「なぜ主観を排除する必要があるのか」

パイロット志望者の皆様、初めまして。PILOT専門進学塾・シアトルフライトアカデミー学科主任の江田です。

これから定期的に学科指導をしていて思ったこと、日々の雑感などをブログとして書き記していこうと思っています。

自己紹介

まず簡単な自己紹介から。

私は長年、学習塾の講師として中学生・高校生をメインに指導してきました。

その中で日本に蔓延る過度な経験主義的な指導に疑問を持ち、心理学を中心に学ぶようになり、本当にそれは効果があるのか?という問題に挑んできました。読書量は6年で1500冊ほど。市販の本だけでは論拠に乏しいので論文にも目を通すようにしています。最近の興味は経済、経営、歴史、政治、統計学、ファイナンス。趣味はシール集めです(笑)

このブログを書くにあたって、「なるべく主観を挟まずに書く!」すなわち「なるべく書籍や論文から分かる客観的な事実を書く!」という自分に対する縛りみたいなものを用意していますので、最初にその理由をご紹介しようかと思います。

長年生徒さんの勉強や自分の勉強と向き合ってきましたので、当然その中で感じること、ひらめきのようなもの、勘、は得てきたと思います。しかし、それを敢えて(ほとんど)封じるのにはそれなりの理由があるのです。これは好みの問題ではありません。(好みで言えば、自分の主観で考えを述べている方がよほど簡単で楽。)

それではさっそく主観をなるべく排除する理由を述べてまいりましょう。

理由1 人は経験したことより、経験していないことの方が多い

これは当然ですね。

私一人がどれだけ頑張ったところで、その他大勢の全ての経験を上回ることはできません。もちろん一人一人の経験は貴重です。その中でしか得られない知恵もあります。ですので、自身の経験を大切にしつつも、自分以外の経験、客観的な指標に目を向けることで、自分の経験の意味をより深く味わえるようになるのでしょう。

しかし経験というのはそのまま他人に伝えても、その人にとって有益かどうかはわかりません。

例えば、私はノートをとることについて、小学生の頃自分よりとても綺麗にノートをとる同級生が自分よりテストの成績が悪いことを知って、ノートをとるのは意味がないんだと経験から学びました。でも、それを他人に勧めていたら有益どころか有害ですよね。ノートの取り方についてはいつか書く記事で具体的にお話しますが、ノートを取ることは概ね勉強の成果にポジティブな影響を与えるからです。

私は運よくほとんど板書すらノートに書かなくてもそれなりの点数を取れていましたが、もしノートをしっかりとっていたらどうなったか?それがわからないうえ、本来とれる点数より下がっていたとしたらやはり他人に勧めるべきではないでしょう。

理由2 人は現実をねじ曲げて都合の良いように解釈している

これをバイアスと言います。

特に世の中の理解に関して気をつけないといけないバイアスが確証バイアス(Confirmation bias)です。

これは非常に強力なバイアスで、人種に関わらず発見されています。確証バイアスとは、言い換えるなら自分の信じたい情報を信じる、という傾向のことです。これについては総務省の啓発情報ページにもまとめられているので、参考にしてください。

なぜ確証バイアスが危険かというと、自分の信念に反するものは全て排除してしまう点です。反証があるからこそ進歩、発展、成長があるのに、すべて排除してしまうと現実から大きく外れ、停滞してしまいます。

また、反証を全て排除すればどんなものでも「完全な」ものが出来上がってしまいます。でもそれはその人の脳内の世界だけのこと。なるべく他の意見、データ、実験研究に目を向けようとしているのはこのためです。

バイアスはこの他にも100種類以上見つかっており、自分にはバイアスなどない!と考えること自体バイアスだらけの可能性が高いので十分お気をつけください。

理由3 この世界はだいたい意地悪な学習環境である

意地悪な環境とは、複雑系に属し、繰り返しのパターンがおこりずらく、即座のフィードバックが得られにくい学習環境を言います。それに対して親切な学習環境とは、範囲が限定的で、繰り返しのパターンが多く、即座のフィードバックが得られやすい学習環境を言います。

具体例で言えば、意地悪な学習環境に属するのは、人の感情、ビジネス、株価、教育などで、親切な学習環境に属するのは、学校のテスト、スポーツ、音楽、などでしょうね。それぞれの環境で言えることは、前者は経験だけでなんとかなるものではなく、後者は経験で(ある程度)なんとかなる、という違いでしょう。

本当にそうなのか分かる範囲で考察してみますと、経験だけでビジネスがなんとかなるなら、経験豊富な経営者なら次のビジネスでもほぼ確実に成功を収めるでしょうが、ほんのほんの一握りの経営者を除いたら、失敗に終わる可能性の方が高いのではないでしょうか。株もそうですね。一度大儲けした人が、次もまた大儲けできる可能性は非常に低いです。もし経験さえ積めば大儲けできるなら、その人の判断に従えば全員儲かるはずですが、そういう話は聞いたことがありません。

人の感情もまたそうで、一見単純に思える「嘘」を見抜く力においても、どうやら経験だけでは学習できないようです。

こちらを見てみると、一見嘘を見破るのが得意に思える警察官であっても、コインを投げて表か裏かを当てる程度、つまりほぼ運くらいの確率でしか成功しないようです。

この研究によると、世界中の警察のマニュアルにもまばたきの数や、目を逸らすなどの行為が嘘のヒントになると書いてあるそうなのですが、それらもどうやら嘘を見抜く決定的な手段にはならないとのこと。このように警察官が嘘を見破るのが上手くならない理由として重要なものに、即座のフィードバックが得られないことがあげられます。つまり、嘘をついている犯人がその場で「正解!嘘でした!」や「残念!今のは本当のことを話しています!」などと答え合わせをするのはあり得ないからです。

生徒の学習に関しても同じことが言えます。勉強の効果というのは、数日、数週間、あるいはもっと長いスパンの中でやっと効果が見えてきますが、通常それだけ日数が経過すると生徒は数えきれないほどの何らかの勉強をし、また教育的介入を受けますが、経験だけではそれらのうちいったいどれが結果との因果関係があり、どれが因果関係がないか不明です。そのため、ただ漫然と指導を経験しても効果的な学習が何かを学びとることは困難です。

対照群をもうけた実験が実施されれば良いのですが、倫理的に問題があるため現場で実施するのも難しいので、客観的なデータや研究を大いに参考にしながら実践していく、という態度が必要になるのです。

このことを補強する事実として、専門職資格をもった教師の方が生徒の深い理解度、問題解決力が高いという研究もあります。

もう一度いいますが、私は経験を否定しているわけではありません。しかし、経験(実践)→メタ的視点(抽象度を上げた視点)=実験、データなどからの考察→経験(実践)→∞の繰り返しが、専門性の高い熟練した指導者を作り上げていくのではないでしょうか。

意地悪な学習環境については最近ですと、デイビッド・エプスタインさんの「RANGE」という本でも取り上げられています。こちらの本は1万時間の法則でもグリットでもない、知識の幅こそが人生の成功確率を上げるという主張がなされている本でとても有益かと思います。経営学でも両利きの経営が利益をもたらすという考えが注目されているのと一致していますね。リンクを貼っておきますのでご参考までに。

理由4 反論が可能であるから信憑性が増していく

これは直感ではわかりにくいかと思いますが、客観的なものは反論ができます。主観的なものは反論できません。

例えば、「イチゴはおいしい!」は主観ですが、これに反論する術はありません。いくら「おいしくない!」と反論したところで、その人には「おいしい!」からです。一方で、「このイチゴは糖度が15もあって甘い!」というのは反論できます。「糖度でいうならカボチャは20くらいあるのでカボチャの方が甘いことになる。カボチャは一般的にフルーツのように甘いという人は少ないと予想されるため、イチゴも甘くないということになる。」や、「そもそも糖度だけで人間の感じる甘みが決まるわけではないから、それだけでは甘いと言えない。」や、「こちらで同じイチゴの糖度を計測したところ糖度は9であった。計測にミスがあったのではないか。」などです。(うまい反論かどうかはおいておいてください 笑)

これらの反論があった場合最初の「このイチゴは糖度が15もあって甘い!」というのは見直しを強いられます。例えば「他の一般的なイチゴをランダムに100個用意して、同じ機械で糖度を計測したところ平均値は9.24であった。このイチゴはやはり糖度15であったからイチゴの中では相対的に甘いと言える。」などです。こうすると最初の主張より精度が増しましたよね。まだ反論できます。「平均値はわかったが、標準偏差など分布が示されていないため、極端に甘くないイチゴが多数混ざっているのが平均値を下げており、糖度15というのは平凡な甘さの可能性があるため、そのイチゴが甘いとは言い切れない。」などです。それにも反論できれば情報の精度がさらに増します。

このように反論が繰り返されるほどに情報の精度が増すということは、そういった情報に触れる人たちにも当然良い効果があるのは言うまでもないでしょう。たびたび多数の人に引用されることの多い科学哲学者カール・ポパーの言葉を借りれば「科学とは反証可能性があるもの」であり、これが科学の真髄であり、私がなるべく主観を排除しようとする理由です。私が「良い!効果がある!」と思い込んだところで、他人に効果があるかどうかはさっぱりわからないのです。

最後に

ブログと呼べないような長い文章となってしまいましたが、いかがだったでしょうか?

いくつか私が主観を排除しないといけない理由を述べましたが、主観が全く意味がないわけではありません。

主観が次のリサーチクエスチョンのヒントをもたらしてくれる可能性があるからです。つまり主観で「ノートって意味ないんじゃ?」と思ったら、自分で実験を行なってデータを示すか、そういう研究がないかどうか調べれば良いのです。(確証バイアスに気をつけながら・・・)

また、客観的なデータだけでは個別具体例に当てはめが難しい場面が出てきます。そこで経験が活きることになります。つまり、実務上合わない部分は、基本原則を踏襲しつつアレンジを加えるのですね。例えば、この子は自立性が非常に高いから、宿題は最小限にして自分の計画にしたがって勉強を進めてきてもらおう、など。私は主観というはそのように利用しています。

といった感じで自分で勝手にハードルを上げましたが、書籍類をだいぶ処分したせいでどこまで客観的にいけるかさっそく自信がありません(笑)また、統計学・研究法についても鋭意勉強中のため、変な研究引っ張ってくることもありますがそこはお許しください。。。

次回は最近PJの学科指導で導入したAI学習教材「atama +」について、使用してみた感想や自分なりの分析を書いていこうと思っております。

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